清里の牧草地を縁取る雑木の木立ちに絡んでいるアケビが、実りの時期を迎えた。
メジロが群れをなしてやってきては、旺盛にアケビをつついている。小さな黒い種をいっぱい含んだ半透明の果肉がたちまち消えてしまうほどの食べっぷりだ。夜にはきっとヤマネが、同じアケビの蔓の間を嬉々として走りまわることだろう。甘い果肉とともに彼らのお腹に収まったアケビの種は、つかの間の旅をし、やがて糞と一緒に落とされて、来春また新たな生命を展開してゆくのだ。
一つの生命は他の生命にかかわっている。何かを受け取り、何かを与えながら、見えない生命のバランスは保たれてゆく。生命とは巡りゆく輪のようなもの。人間は今日、この繊細な生命のバランスにどうかかわっているだろうか…。
4月の終わりだったか、小学四年生になったばかりの娘が自宅の片隅にあるギンモクセイの、生い茂った枝葉の間にメジロの巣を見つけて、知らせに来たことがあった。よっぽど動揺したのだろう、両手をゲンコツにして鼻を膨らませながら、途切れそうな声でいずみは言った。
「ねえ、パ、パパ。あそこの木の、葉っぱの、葉っぱの後ろに、巣がある」「わかったわかった。お前、声裏返ってるよ。よし、見に行こう」
おもむろに腰を上げたのだが、本当はぼく自身、すぐにでも走り出したい衝動を抑えるのに精いっぱいだったのだ。こんな日常の小さな感動の一つ一つが、実は幸せというもののエッセンスなのではないだろうか。
瞬く間に過ぎた半年。長いようで短い時の流れの中には、いろんな想い出が満ちている。記憶とは、時間という空白の上に様々な色や形をした無数の想い出の断片をちりばめた、ちぎり絵のようなものなのかもしれない。人は一生をかけて、その人にしか描くことのできない、ただ一枚の記憶のちぎり絵を完成させてゆく。
久しぶりにのぞいた庭先の巣。空っぽの巣から短いヒナの声がかすかに聞こえてくるような錯覚を覚え、胸がいっぱいになる。あのメジロの群れの中には、もしかしたら半年前にここから巣立った子もいるかもしれない。子を想う気持ちは動物でも人間でも同じなのだ。
様々な想いを載せて、今年の秋も深まってゆく。