12.心の耳で聴く

エッセイ_こころの耳で聴くの画像

 無意識に目を向けたら誰かと視線が合ってしまったという経験は、きっと誰にでもあると思うのだが、面白いことに動物との間にも、時折そういうことがあるのだ。たとえば霧の中を車で走っていてふと見たら、カラマツの木立の中から鹿の親子がこちらを見ていたとか。ぼくはそんなことを年に何度か体験する。


 八ケ岳という環境がそれを可能にするのかもしれないが、とにかく視線が一瞬にしてそこに行くのだから、きっとこれはある種の感覚なのだと思う。うまく言えないが、人間が本来備えている本能とでも言うべき、とても古い感覚の一部であるような気がするのだ。


 まきば公園を抜けて川俣渓谷にかかる赤い橋に続く道路の手前のカーブには、高い石垣がある。2月のある晴れた朝のこと、息子の大地を清里聖ヨハネ保育園に送った帰り道、橋を渡りながら石垣を見上げると、雪が解けてまだらに土が露出した高台で、のんびり枯れ草を食べているカモシカと目が合った。道が直線になるところでさりげなく車を停める。後続車が次々と通り過ぎてゆく。どうして誰も気がつかないのだろう。とうとうぼくは車を降りて、石垣の上まで登って来てしまった。


 時々視線を交わしながらぼくも土手にそっと腰を下ろす。どうやらご機嫌は損ねていないようだ。濡れた鼻先や角の根元にくっついている苔が生々しい。


 何だか妙なことになった。蟻のように列をなして往来する車の色とりどりの屋根を、ぼくは今、カモシカと同じ土手に並んで座り、一緒に見下ろしているのだ。まったく別次元の時間と風が、ここには流れている。


 動物や草木とこころを通わせ、風の中に自然の語りかける声を聴く。本能のようなこの古い感性を、ぼくはとても愛おしく思う。そして何とかしてもう一度、この感性を呼び覚ましたいのだ。「そんな夢のような話」と一笑に付さないでほしい。今という時代だからこそ、ぼくたちは母なる自然の声を、自分自身のこころの耳で聴く必要があるのだ。それは生命の根源にふれる営みであると、ぼくは信じている。


 どれだけ科学が進もうとも、ぼくたちは自然を離れて生きることはできない。ぼくたちは自然という大きな生命の一部なのだから。

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