30.永遠に

エッセイ『永遠に』の画像

 気がつけば、今までほとんどさくらを撮らなかったぼくが、なぜかこの数年で、たくさんのさくらを撮っていた。そればかりか、一昨年制作した写真展の30点の作品の中に実に4枚のさくらを、ぼくは選んでいるのだ。


 写真展作品を選ぶ過程で、絶対に外してはならないと強く感じる作品が残ることがある。しかもたいていの場合、そういう作品に限ってコメントはおろか、タイトルさえ思いつかないことが多いのだ。ぼくは困惑しつつも、作品が何かを語ってくれるまで、来る日も来る日も自分の作品に向かい合う。作者本人さえ気づかなかったこころの内奥を自らの作品から教えられる瞬間は、未知なる自分との再会とも言えるのかもしれない。


 個人的なことになるが、妻は最も悪性度の高い脳腫瘍とつき合っている。6年半前に28歳で発病してから現在までに妻は2度の手術を受けた。病名を知ったとき彼女は、まだ1歳半だった息子・大地の小学校入学式までは見届けたいと願った。そして子どもたちの太陽としてひまわりのように、強く生きようと望んだ。その大地がこの春3年生、姉のいずみは5年生になる。病室で知りあった同病の親しい友人を、今日までに何人見送ったことだろう。ちょうどこのエッセイが出るころ、妻は3度目の手術に臨む。病を通してぼくたち家族が学んだごく単純なこと。それは、今をよろこんで生きること。そのことが、ぼくの写真を変えた。ぼくにとって写真とは、こころの言葉なのだ。

 あの写真展を準備する中で、タイトルもコメントも浮かばず、何日も苦悩のうちに向き合った4枚のさくら。それは、こころの奥深くで無意識に重ねた妻の姿だった。季節はめぐり、毎年かならず春は訪れる。花に自らの生命を重ねる多くの人のこころを想う。生と死、それは光と影のようなもの。光りなくして影もない。肉の体には限りがあるとしても、生命のかがやきは永遠に終わることがない。
 

 あの日ぼくは、写真を通してよろこびを伝えたいと願った。あらゆる生命の本質であるよろこびを。そう。生命とはよろこびなのだ。そのことを伝えるためにこの30通のこころの手紙を今日まで書けたことを感謝しつつ、連載を終えよう。

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