かつて夏の北極圏アラスカのフィールドを、一人で歩いた時のことだった。撮影機材のほか、テントや食料が入って自分より重くなったザックのあまりの重さに疲れたぼくは、力尽きて荷物を投げ出し、草地に倒れこんだ。ちょうどその場所は、黄色い花が咲き涼しい風の通う、心地よい空間だった。風に揺られた彼らが耳元で奏でる微かな葉擦れの音をぼんやり聞きながら、ぼくはいつの間にか眠ってしまったらしい。
極北の短い夏を生きる名も知らない素朴な花たち。その花びらは色あせ、虫に食われ、形も整っていない。でもぼくはこの花の美しさに、深く惹きつけられた。もし今日ぼくが訪れなかったなら、きっとこの花は広いアラスカのフィールドの中で、だれの目にも触れることなく、短い生涯を終えたことだろう。同時に思った。はたして花は、だれかに評価されるために自分を飾るのだろうか。
ごく単純なことなのだ。花は、ただ自分の花を咲かせるために、自らの生命を生きる。人はどうだろうか。ぼくたちは自分という花を咲かせるために、自らの生命を生きているだろうか。他者との比較に一喜一憂する人間社会の現実の中で、人がいかに自分自身を生きることのできない存在であるかを思った。素朴なこの花の奥に秘められた美しさ。それは五感を突き抜けた向こうに垣間見えた、決して色あせることのない輝き。生命そのものだったのかもしれない。
傷つき不ぞろいな花の姿に等身大の自分の姿を重ねたとき、限りある肉の体をまとった自分もまた、同じ無限の生命の輝きに包まれていることを知った。あらゆる生命が生きて今、在る。そのこと自体が神聖であり美しいのだ。しかしそれに気づけずに人は苦悩し日常の中に埋没し、流されてゆく。それが今という時代の悲しさなのかもしれない。
この世にただ一人の、ありままの自分を愛することなしに、人は他者を本当に愛することはできない。 目に見えない光、手で触れることのできない形、無限の生命。あらゆる存在は、個を超えた根源的生命の中に内包されている。それは、こころによってしか受けとめることのできない、美の本質なのだ。色あせた黄色い花は、そのことをぼくに教えてくれた。