13.夜明け

エッセイ_夜明けの画像

 時計の針が朝四時を回った。濃霧で何も見えないが、おそらく夜明けを迎えたのだろう。急に風が強くなってきた。耳元を風がびゅーびゅー音をたてて通り過ぎてゆく。七月だというのに気温が低い。停滞していた霧がゆっくりと動きだした。じっと目を凝らすと、幾重にも折り重なった密雲が渦を描くように霧の中を流れているのが見える。まるで水墨画の濃淡の世界に入り込んだかのようだ。やがて東の彼方にぼんやりと光が見えてきた。


 「ひょっとすると、運がいいかもしれないぞ」。思わず期待を抱く。そんな気持ちが通じたのか、霧が風によって次第に吹き払われてゆく。じっと見守っていると、低い雲の切れ間から朝日を鋭く反射する湖面が見えはじめ、ついに神々しい光に包まれた神秘的な摩周湖がその全貌を現した。


 夜明けの光が風を呼び起こし、こんなにも劇的な変化をもたらすとは…。


 深い色合いに満ちた湖水の上を風が自由に吹き巡っている。孤島カムイシュが、まるで湖面を静かに泳ぐ巨大な生き物のように見えた。 一陣の風が、湖面に波紋を刻みながらこちらに迫って来る。風は湖岸にぶつかり、そのまま群生するクマザサをなびかせてまっすぐに吹き上がり、カルデラ壁の急斜面の上に立っているぼくを包み込むように、後方に吹き抜けていった。


 湖水の冷気を含んだ風を体に受けながら、じっとこころを澄ます。このざわめきは一体何なのだろう。湖を包みこむあらゆる要素が風の中で振動しているかのような感覚。風はクマザサだけでなく、ぼくの体の中の細胞の一つ一つをも共鳴させ、こころの中の草原をかき立てていった。


 アイヌの人々は摩周湖を取り巻く外輪山の中でもひときわ高い山を、カムイヌプリと呼んだ。それは神々の宿る山という意味を持つ。幽玄の自然に身をゆだね、その息吹に触れながら、先住の人々がこの山に込めた思いと心の片鱗を垣間見たような気がした。


 かつて北極圏アラスカの大自然の中で感じた、あの畏怖の念と不思議な気持ちがよみがえる。それは初めて訪れたはずなのになぜか懐かしい、確信にも似た不思議な気持ちだった。


 「ぼくはずっと昔、きっとここに来たことがある」

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