レンズには酷な条件だが、ぼくは写真に太陽を写し込むのが好きだ。雪の残る八ケ岳の県営牧場。紺碧の空の広がりの中を一筋の飛行機雲が、白竜のように西へと伸びてゆく。空間に余すところなく降り注ぐ光。その光と、空の青と、大地のシルエットという限られた要素で構成した画像に、ぼくはとてつもなく大きなエネルギーを感じる。あえて色を切り詰めることで、その奥にある本質が見えてくるような気がするのだ。
かつて師事した写真家で、昨年五月に他界された並河萬里さんのことを、最近よく想う。気性が激しく、時に現実と感覚の境を超えるほどに鋭い感性を持つ人だった。失われゆく世界各地の貴重な文化遺産を撮影し、フィルムとして後世に残すことをライフワークとした並河さんの作品の中には、あえて強い陰影で構成されたものも少なくない。短かった弟子入り期間の中で、並河さんが情熱を傾けて撮影した写真作品の数々にじかに触れられたことは、ぼくの貴重な財産だと思う。いつだったか、同輩がぼくに言った。「お前の写真、並河さんによく似ているね」
当時ぼくにはわからなかった。並河さんとは好む光の性質が違っていたのだ。少なくとも当時、そう思っていた。しかし、二十年も昔に同輩から言われたこの言葉を、今ごろになって素直に受け入れたいと思うようになった。自分でも気づかない奥底で、ぼくのこころは恩師の感性に共鳴していたのだと。
取材先のパナマ・サンブラス諸島の海岸を二人で歩いたとき、並河さんがぽつんと語ってくれた言葉がある。
「技術は誰でも身につくが、感性は違う。一番大切なのは、お前が何を感じているかということだ」
写真はコピーではない。もしそうだとしたら写真は魔法を失うことになるだろう。写真は、具象の奥にある見えない本質を紙に定着させる試みなのだ。だからこそ、作品には作家の存在そのものが込められている。今のぼくには、それがよくわかる。光から目をそらしたくない。紙の再現領域をはるかに超えた光と影のコントラストの中には、崩壊の危機に瀕した文化遺産に対峙する度に並河さんの心に湧き上がった緊張感や激しい怒り、動揺、愛に通ずる何かがある。
恩師の存在を今以上に深く想ったことは、これまでなかった。