ここにいると、なんとなく気持ちが落ち着く。だれでもそんな空間を一つや二つ、持っていないだろうか。それは庭のかたすみの花壇であったり、お気に入りの雑貨店かもしれない。ぼくはそれを「こころの場所」と呼んでいる。
どうやらぼくは根っからの自然育ちのようだ。小高い丘にある見晴らしのいい岩の上とか、梢をわたる風の音が素敵に響く森とか、うまく説明できないが、そういう空間に共通するある種の空気に、ぼくの波長は合うような気がするのだ。こころの波長と空間の生み出す波長とが調和して一つになる。「心地よい」とは、なんと含蓄に富む言葉なのだろう。
天女山入り口を小淵沢方面に少し行ったところにあるカラマツの森の切れ目。とりたてて素晴らしい展望があるわけではないが、気になる場所の一つだった。富士山にうっすら雪がつもった初冬のある晴れた日、久しぶりにここを訪れる。春先にはきれいに下草が刈り込まれていた空間が、銀色に輝くすすきの海になっていた。穂の海につかりながら静かに目を閉じていると、4月の終わりのある霧の朝、ここで体験した出来事が浮かんできた。
その日、霧は時ならぬ淡雪に変わり、芽吹きのカラマツの森は幻想的な雰囲気に包まれた。ふいに遠くの木立の間から一頭の若い鹿が迷い出た。まるで何かにこころを奪われているかのように、無防備に。 ぼくもその時、森に満ちている春の香りと新芽の輝きにすっかり魅せられて、そこにたたずんでいたのだ。この瞬間、ぼくはあの鹿と、きっと同じ気持ちを分かち合えたような気がする。あれから何度目の冬を迎えることになるだろう。一期一会の出会い。あの鹿は元気だろうか。
最近よく思うことがある。見るという行為は、たとえどんなに近づいたとしても、結局、見る対象と自分との間にある距離を埋めることはできない。しかし、たとえどれほど遠くにあって見えないものであるとしても、それがこころの波長で結ばれたとき、ぼくたちは個という壁や距離を超えてその対象を、はるかに深く感じ取れるような気がするのだ。生命を感じるとは、きっとそういうことなのではないだろうか。