ある冬の日の朝のこと、落葉してすっかり明るくなった清里のトレイルを、久しぶりに歩いた。特に意識を向けなくても、足は勝手に道をたどってゆく。何かを考えるのではなく、こころの赴くままに森を歩く時間が、ぼくはとても好きだ。ふいに空間を影が横切り、倒れかかるように傾いた木の幹にとまった。梢からさし降りた光の輪の中に、ルリビタキの姿が浮かび上がっている。ファインダーを通して円らな瞳と目が合った次の瞬間、瞳の主は消え、ただ残像だけが鮮やかに、こころのスクリーンに焼き付いた。
ルリビタキの性別をとっさに見分けることは、ぼくには難しい。おそらく出会ったのは雌だと思う。もし尾羽の上の腰のあたりが見えたなら判別できただろう。雄の幼鳥は雌とほとんど同じ姿をしているが、腰のあたりにほんのり青みがあるのだ。雄は何度か冬を越しながら、オリーブがかった褐色から徐々にるり色ヘと変わってゆくらしい。数年しか生きないルリビタキの雄が、その数年をかけて、美しいるり色に変わってゆく。それはつまり、一生をかけて、ということなのだろう。厳しい自然界の中で彼らが天寿を全うできる確率の低さを思う時、鮮やかなるり色の雄鳥が「幸福を呼ぶ青い鳥」と呼ばれる理由がうなずける。数年という時の重みを感じた。
しかし、このルリビタキの視線の何と自信にみちていることだろう。手のひらにすっぽり収まるほど小さいのに、今にも写真から飛び出してきそうな気迫が伝わってくる。威厳さえ感じるのだ。 こんなに小さな体の中に、どうしてこんなにも力強い生命の炎が燃えているのだろうか。ネガティブに受けとめられがちな、冬という季節が内包する底知れない明るさ、静寂の中にみなぎる生命力。ちょうど冬の森の梢からさし降りてくる光と影のコントラストのように、相対するものの緊張感があるからこそ、生命の輝きは際立つのかもしれない。
やがて春を迎えた時、自分の羽がまた少し青みを増したことに、彼らは気づくだろうか。いや、きっとそれさえも、彼らにとってはどうでもいいことなのだ。今この瞬間を生きることこそが、彼らにとってのただ一つの真実なのだから。