21.落ち葉

エッセイ『落ち葉』の画像

 冬枯れた明るい雑木林を歩いた。落ち葉を踏みしめる音とふかふかの土の感触が、記憶を呼び覚ます。群馬県ですごした小学生時代。通学で毎日歩く雑木の森は、四季を通じてぼくたちの遊び場だった。夏にカブトムシが集まる木があり、ぼくたち遊び仲間は、その一本一本に名前をつけていた。たとえば道脇の斜面の下に立つ木は「がけの下」。青い街灯の横に立っているクヌギは「青デンキ」というように。しかし、ずいぶん時間が経ったものだ。たくさんあったはずの秘密の木の名前を、今はもう思い出すことができない。


 ドングリが青く育つころ、台風もきまって何度かやって来る。その翌朝に森へ出かけるのが楽しみでしかたなかった。若いドングリが葉っぱごともぎ落とされて、山のように積もっているのだ。緑一色のもの、淡い縦筋がついているもの。どれも本当にうっとりするほど美しい。種類によって微妙に模様の異なるドングリを、ただひたすら夢中で拾い集めたものだ。しかし、どんなにきれいなドングリも、数日後には色あせてしまう。幼な心に無常を感じ始めたのも、このころかもしれない。


 晩秋から冬。春をまつ季節。森は落ち葉で覆いつくされる。学校帰りのぼくたちは、木枯らしが腰の高さまで吹き集めた落ち葉の山を見つけては、そこにもぐり込む。体をほんのり包み込む暖かさと甘酸っぱい香りを、今もよく覚えている。嗅覚は時に、視覚よりもはるかに強く記憶と結びつくのだろうか。


 春に生まれ、半年という時間を精いっぱい生きて舞い落ちてきた木の葉たち。一枚一枚にドラマがあったことだろう。虫に食われて穴があいたり斑になったり。一つとして同じものはない。そしてそれぞれが、晩秋の太陽の光を思い思いの色で封じ込めたかのように美しい。たとえ明日、その色はあせてしまう運命であるとしても。


 美しさとは、固定されたある瞬間だけにとどまらず、移ろいのプロセスそのものの中にある、動的なものなのかもしれない。土に帰った落ち葉たちは、やがて再び木の中に取り込まれ、いつかまた元気な若葉として芽吹くことになるのだろうか。新たな生命を夢見ながらつかの間の眠りにつく落ち葉の輝きの中に、生命の連環を想った。

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