寒さで目が覚めた。シュラフの中から手を伸ばしテントを開けてみたら、信じられないほど鮮やかな光彩が、空いっぱいにあふれていた。天を仰いで思わずついたため息さえも光の粒子となって、空のグラデーションの中に溶けていってしまいそうな気がした。
午前2時半。観客はぼく一人かもしれない。あまりに美しい光景に出会った時、どうして人は悲しい気持ちになるのだろう。
小さなたき火をした。風雪にさらされて骨のように白くなったハイマツの枯れ枝を集めて火を起こし、そっと手でおおう。炎はかざした手の内側で踊りながら、しだいに輝きを増してきた。やさしいぬくもりに体が包まれる。透き通った群青色の空とオレンジ色の炎、燃えてゆく木のパチパチとはぜる音、煙の香り、空の深みへと舞い上がってゆく金色の火の粉。すべてが尊く、美しい。
「極北のアラスカではね、ハイマツがひとさし指くらいの太さに育つのに、100年以上かかることもあるんだよ」
いつだったか星野道夫さんがこう話してくれた。目の前の炎も、数百年の歴史を内包しているのかもしれない。生きるということは、きっと、さまざまな生命の歴史に自分の歴史を重ね合わせてゆくことなのだろう。
残念なことに最近ぼくたちは、炎を見る機会がめっきり減ってしまった。囲炉裏、かまど、落ち葉たき、どんど焼き。生活にせよ祭りにせよ、炎は人にとって身近なものだった。火を手にして以来、人は火とともに歩んできた。家族が囲炉裏を囲んだつい昨日のような時代の、心の豊かさを思う。便利な時代ではなかったかもしれない。が、幸せや心の豊かさは便利さと決してイコールではなかったことを、今日、ぼくたちはよく知っている。
人は遠い昔から、火を囲んで共有する時間の中で家族の絆を深め、大切なことを自然に学んできたのではないだろうか。たき火には人を癒し、心と心をつなぐ不思議な力が秘められているような気がしてならない。
空の光彩がいっそう輝きを増してきた。白夜の季節は終わりを告げ、夜が戻りつつある。間もなく季節は一足飛びに、冬へと移ろいゆくことだろう。遠くで呼び交わすオオカミの、かすかな声が聞こえた。