「あっ、こらっ!それは靴だ。かじるな!」
たとえ極北のフィールドに一人でいても、しゃべる機会は結構あるものだ。あたり一面の土の巣穴から出てくるホッキョクジリス。その愛くるしい姿とは裏腹に、彼らは油断できない存在だ。
ある日、川渡り用の運動靴をテントの外で干していた。気がつけばジリスがいる。口から何か断片が。あわてて靴を取り返す。かじられた靴は、かかとの横に見事な穴が。怒りに震えて靴を拾い上げ、あいた穴からのぞいたら、遠くで立ち上がり円らな瞳でこっちを見ている無邪気な犯人と目が合った。なんとも間のぬけた瞬間が自分でもおかしくて、不覚にも爆笑してしまった。
ホッキョクジリスは、アラスカに住むヒグマやオオカミ、猛禽類などの生命を支える貴重な食料源だ。いったいアラスカ全土にはどれくらいの数のジリスが生息し、年間どれだけの数が、食べられてしまうのだろうか。
翌日の午後のこと、テントの中でうたた寝をしていたら、すぐ耳元で気配がした。いつもの友だ。今日はとうとうフライシートの内側にまで、もぐり込んできた。「また靴か」うつぶせに寝たままカメラを構えファインダーをのぞく。あろうことか極北の友は、広角レンズのフードにまで手を乗せてくる。その浅い鼻息がファインダー越しにぼくの顔にかかり、長いひげの先が額に触れた。
「お前、いくら何でもそれは寄りすぎだよ」
推測だが、危険を感じると巣穴に逃げ込むホッキョクジリスは、テントのように閉じられた薄暗い空間の中にいる者を警戒しないのかもしれない。ぼくが話しかけるたびに、なぜか友は、声の主でなくテントの外の様子を見に行くのだ。何度か同じことを繰り返すうちに、ちょうどぼくの目の前に、ふさふさした友のしっぽが…。思わずぼくは、そのしっぽをつかんでしまった。衝撃とともに友の姿は消え、ぼくの指の間には、筆ができそうなくらいの毛が。ちょっと後悔。でも気持ちは晴れた。
「まあいいか。靴のお返しさ。友よ、また遊びにおいで」外に出て、つまんだ綿毛を青空に向けて、ぷいっと吹き飛ばす。
「さて撮影に出かけよう。おっと、靴はしまったかな」