17.氷河湖

エッセイ『氷河湖』の写真

 時を忘れて、この蒼く澄んだ湖水を見つめていた。何日も渓谷を遡り最後の岩壁を越え、ようやくたどり着いた目的の氷河湖。はるか遠くにそびえていたアリゲッチ針峰群のピークは今、すぐ目の前にある。静寂の世界がそこにあった。


 はじめて訪れたこの場所が、なぜこんなにも懐かしく愛おしいのだろう。きっとこの想いは、ぼく個人の知識や経験によるものではない。もしかしたら、個を超えて人が昔から心の奥に無意識に共有してきた、深い記憶のようなものなのかもしれない。


 岩と氷、空と水、そして光の綾なす空間。生命を拒絶するはずのこの場所で、ぼくは根源的な生命にふれた。全ての源として存在し語りかける、声なき声、言葉なき言葉といおうか。沈黙の中に満ちている人智を超えたこの限りない慈しみに、自分も包まれていることを知った。


 あれほど憧れた場所に今立っているのに、どうしても写真が撮れない。いや、正確に言えば確かに撮っているのだ。しかし、シャッターを切るそのことごとくの瞬間に、心は「違う」と叫ぶ。テクニカルなこととは全く別の次元のことなのだ。ぼくはこの時、目の前に見える光景ではなく、その奥に心で感じ取った根源的な何かを、写し込もうとしていたのかもしれない。


 アリゲッチ、すなわち「天に向けてさし出された指」という、先住の人々のこの場所に対する呼称は、そのまま彼らの心を表わしている。それは祈りの言葉であった。


 気の遠くなるような時間をかけて氷河は活動してゆく。数万年の昔、ここも厚い氷に閉ざされていたに違いない。しかしその時間さえも地球的スケールで見れば、どれほどのものだというのか。個々の生命のスケールをはるかに超えて営まれる大自然の移ろいを身をもって体験することなど、人間にはできない。人の一生の、何とはかないものであることだろう。だからこそ、いつの時代も人は天に向けて手をあげ、永遠なるものを求め続けてきたのではないだろうか。

 アラスカのフィールドを旅することの意味が、少しづつぼくの中で明確になってきた。それは、今この瞬間を生きる自らの生命を、根源的な生命とのかかわりの中で知ってゆくという作業だった。
 

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